時間にしておよそ数十秒。
シロの魔法陣から放たれた白銀色の光は静かにその姿を消した。この身を襲ったあの浮遊感が消えたことを確認し、ゆっくりとその瞳を開いた。
――――――だが、
『……………………………………なに?』
「おぉ、……高い」
……一瞬、自身の身に何が起こったのか分からなかった。
―――何故か私達の体は、地上約6000mの位置へと放り出されていた。
『黒と白の来訪』
『―――ッ、冗談……では、ない』
本当に冗談や洒落ではすまない。
隣で目を輝かせながらこの状況を楽しんでいる少女―――シロは兎も角、私の場合このまま落下すれば間違いなくただの肉塊と化す。
………………それだけは本当に勘弁してほしい。
思わず自分が血肉・肉塊と化した光景を思い浮かべてしまい顔を顰める。
リーンフォースメント
『―――強化、開始』
脳裏で組み立てた術式に魔力を流し、全身を強化する。
先のこともあり、もうあまり魔力は残ってはいないのだが、この魔法なら比較的少ない魔力で展開出来る。しかし、例え体を強化したところで、この高さからの落下ではほとんど意味を成さないだろが……何もしないよりは断然マシだ。
しかし無常にも徐々に落下速度が上がっていくのが分かる。
そして、顔面に受ける風圧が強くなり、満足に目が開けられないようになった。
だが、私のちょうど真下の位置―――落下地点に医療施設のような建物が見えた。
突然地上約6000mから落下するという貴重かつ奇妙な体験。
飛行能力を持つ空戦魔道師では無い私がこのような形で体験することになろうとは正直思ってもいなかった―――と、本当にそろそろそんなことを考えている場合ではないようだ。
徐々に地表がはっきりと目視できるようになった。
このままではあと数秒もしないうちに硬い地面へと激突する。
―――さて、どうしたものか。折角拾った命だ……こんな所で、このような形で失うのは避けたい。
リーンフォースメント、フラクタル
『強化 、重装』
先ほど展開した強化魔法に重ね掛けを施す。
ギチッ、ギシ―――ッ!
『グッ―――やはり、今の状態では少々厳しいか…………』
強化魔法の重ね掛けをするのは今回が初めてではない。
しかし、魔力の問題もそうだが、思っていたよりも体各部の損傷が酷い。現状況での二重強化はやはり無理があったのか、体の節々が悲鳴を上げる。
だが、今はそのような些細なことを気にしている状況ではない。
悲鳴を上げる体に鞭を打ち、両腕を前方に突き出し落下の衝撃に備えた―――その時だった。
飛んで
「……Ein Flug」
顔面に受ける風圧の影響でほとんど音が聞こえない中、何故かその声は私の耳に浸透するようによく響いた。
すると、シロの真下に白銀色の魔方陣が展開され、同色の光が私達の体を優しく包み込んだ。
『……む?』
徐々に落下速度が減速し始め、そして地上数十メートルの位置で落下は完全に停止した。
『……飛翔魔法、か?』
「……ううん、ちょっとちがう」
私の独り言に隣で同じようにゆったりと浮いていたシロが答えた。
「同系統の魔法……だけど、魔法にこめられてる概念が、すこしちがう……だから、クロがしってる飛翔魔法とは別物、とかんがえてくれたらいい」
同系統でありながら概念が異なる魔法、か……数年前に失った探求意欲が再び蘇りそうになるのが分かった。
しかし今はそのようなことを気にしている場合ではないので、現状助かったことを素直に喜ぶことにする。
そのまま私達は地上へとゆっくり降下する。
「……ん、とうちゃく」
それは時間にして数十秒程度の出来事。
しかし私にはとてつもなく長く感じた時間を経て、ようやく私達は地上へと着地することが出来た。
シロは降りた途端、すぐさま周囲を興味深そうにキョロキョロと見渡す。
「―――おぉ〜」
凡そ2年ぶりの外界。その小さな眼から見えるもの全てが久しぶりかつ珍しく思えるのか、いつも無表情のその顔には心なしか楽しんでいるようにも見える。
フルカット
『展開術式―――解除』
その様子に苦笑を浮かべながら全身にかけていた強化魔法を解除する。
元々魔力が少ない身だ。このまま使い続けていたら一分もしない内に魔力切れで倒れてしまう。
周囲を軽く観察する。
どうやらここは先ほど上空から見えた建物の屋上のようだ。
バレーボール程度の大きさのボールやバドミントンのシャトルなどが所々に転がっており、さらに洗濯物などを干す場所でもあるのか、年代物の物干し台も設置されていた。
―――以前居た古巣でも、昼間になると女性局員達が遊び場や弁当を持ち寄って昼食をとるためとして、屋上を使用していたのをよく覚えている。
「……クロ」
『……む、どうした?』
柄にもなく昔のことを思い出していた私に、シロが私のコートの裾を引っ張るようにして呼びかけてきた。
「……あそこ、扉がある」
『扉? ……これはまた、随分と年季の入った扉だな』
シロの指差す方向に視線を向けると、文字通り扉があった。少々年季が経っており、所々錆びていたり塗装が剥がれていたりしていた。
「…………」
『…………』
「……………………」
『……………………』
「………………………………」
『……あの扉を開ければいいのか?』
「……うん」
ようやくシロの視線の意を読むことが出来た私は扉へ近づく。
『(―――随分と古い型だな。今時、自動ではなく手動式のスライドドアとは…………)』
型は旧式のスライドドアと同じもの。ならば簡単に開くのではないかと思い普通に開けようとしたが、どうやら鍵が掛かっているようで開けることが出来なかった。
―――なるほど私に頼むわけだった。
私は膝を地面に付けて扉を観察する。
数分かけて観察したところ、やはり電子ロック式ではない。
『(…………特にこれといってセキュリティシステムに繋がっているわけではないようだ。使われているのは……アナログ式の鍵穴か。ならば特に手間もいらず、比較的簡単に開けられそうだな)』
それならば、話は早い―――と、私は取っ手を掴み一気に力を入れ扉をスライドさせる。
バキッ―――ガガガガッ!
鍵と一緒に何かが壊れる音と共に扉が開く。
『「……あ」』
私とシロの声が重なる。
……しまった。勢いあまってレールごと外してしまった。
鍵のみを壊すつもりが力の加減を忘れ、扉をスライドさせるレールの一部を引き抜いてしまい、破壊してしまった。
上から見た限り、ここは医療に携わる施設であることはほぼ間違いない……後で修理費などを請求されないことを祈ろう。
「……クロ、行こ」
『む? あ、あぁ、少し待ってくれ、すぐに行―――』
考え込む私を他所に、破壊された扉に関心がないのか、先へ行こうとシロが急かす。だがその前に、一先ずこの壊してしまった扉を隅の方へと避けて置いておこうとした時―――
―――ドクンッ
『む……?』
「ん? クロ、どうしたの?」
『…………いや、なんでもない』
突如体の自由が利かなくなり硬直する。
しかし、硬直時間はほんの一瞬。すぐに元通りに動けるようになった。念のため腕や足を軽く回したりしながら動かしてみるが、特に問題なく動く。
なんだったんだ、と疑問に思いながらも、手に持った扉(だったもの)を運び終えシロの元へと歩き出す。
◇ ◇ ◇
「……だぁー! やっと終わったぁーい!」
海鳴大学病院B号棟の一室。
そこでは茶髪の女性が椅子の背もたれに体重を乗せながら天井に向かって叫ぶ姿があった。その姿をデスクで分厚い資料を読んでいた青い髪の女性が見て苦笑を浮かべる。
容姿を見る限り、共に20代後半に差し掛かった程度の年齢だと推測する。
「こらこら、女の子がそんな声出すもんじゃないわよ」
「う〜ぃ、了解で〜す。さ〜てとっと、それじゃぁ、あたしはお先に失礼しますね、石田せんせぇ」
茶髪の女性は着ていた白衣を脱ぎ、ハンガーに掛けてあったコートを手に取る。
「えぇ。あ、でも気をつけて帰りなさいよ? 今の世の中色々と物騒なんだから」
「はーい。あ、でも本当にいいんですか先生一人残して? ……よかったらあたしも一緒に残りますよ?」
「ふふっ、気を使わなくても大丈夫よ。残っている仕事もあと少しで終わるだろうし。今日はたしかトウシさんも遅番だったはずだから、一緒にコーヒーでも飲んでいるわ」
「あ、そうなんですか? あの人が一緒なら大丈夫ですね! それじゃぁこれで失礼しまーす♪」
「はい、お疲れ様。明日は寝坊しないようにね」
「お疲れ様でしたー」と可愛らしい声を出して仕事場を後にする同僚の女性にデスクにいた青い髪の女性は苦笑を浮かべながら見送る。
青い髪の女性の名前は石田幸恵。ここ海鳴大学病院の神経内科の医師。
幸恵は目を通していた資料から目を離し、「ん゛〜!」と言いながら椅子の背もたれに体重を乗せ、固まった体をほぐすように上体を伸ばす。
その際、幸恵の視界に壁に備え付けていたデジタル時計が入った。
「ん? ―――って、もうこんな時間? ……コーヒーでも飲んで少し休憩しようかしら」
幸恵はそう言うと椅子から立ち上がり、仕事場である部屋から出る。
部屋を出ると病院特有の長い廊下に出る。とうの昔に消灯時間は過ぎているため廊下は薄暗い闇に包まれていた。
部屋を出てから少し歩いたところに目的地である休憩ルームはある。
そこには数台の自動販売機が設置されおり、軽く体を休めることが出来るように座り心地のよさそうなソファーも設置されていた。その破格とも言ってもいいほどの居心地の良い空間であるこの休憩ルームは、主に患者ではなくB号棟の医師がよく利用している。
幸恵は自動販売機から紙コップのホットコーヒーを買い、ソファーに腰を沈める。
季節はまだ夜が冷え込む四月上旬―――買ったばかりの暖かいコーヒーは喉を通るごとに、幸恵の体を内側から温めてくれた。ほぅ、と白い息を吐きながらその余韻に浸る。
「おやおや? そこにいるのは幸恵先生かい?」
「え、石田先生?」
完全にリラックスしきっていた幸恵は声が聞こえた方へ顔を向けると、そこには二人の女性がいた。
一人は肩に掛かるくらいに伸ばされた紅蓮のように赤い髪を首の後ろで一つにまとめて結っている女性。
もう一人は綺麗な銀髪を腰付近まで伸ばし、一見小○生にも見える少女のような容姿をしている女性。
二人とも幸恵と同じように白衣を羽織っていることから、病院関係者だということがわかる。
「あら、トウシさん? それにフィリス先生もご一緒で」
「どうも、こんばんわ。石田先生は今日は残業ですか?」
「えぇ、そうなんですよ。少し仕事が溜まっていたので今の内に少しでも消化しておこうかと思いまして」
「は〜、お疲れさん。おっと、隣座ってもよかったかい?」
「えぇ、構いませんよ。フィリス先生もどうぞ」
「ありがとうございます」
トウシと呼ばれた赤髪の女性は幸恵の了承を得ると自動販売機から飲み物を買い、幸恵の隣に腰を下ろす。
フィリスと呼ばれた銀髪の女性も同じようにソファーの空いた空間へと腰を下ろした。
「はふ〜、やっぱり夜勤の時にはココアが一番ですよねぇ〜」
フィリスは自動販売機から購入した『濃厚ミルクたっぷり!こ・こ・あ』と明記されているココアを嬉しそうに口に含む。
「う゛へぇ〜、よくそんな甘ったるいもん飲めるな。あたしには無理だよ」
同じように先ほど購入した無糖のコーヒーに口を付けながらトウシは顔を顰める。
「そうですか? 私的にはもう少し甘いほうがいいんですけど?」
「あ゛ん? ……あ゛〜、はいはい、ちゃんと歯磨いて寝ろよ」
「もう! 子供扱いしないでください! これでも二十歳を超えてるんですよっ」
「無理」
「即答ですか?!」
実の姉妹のように会話する2人を見て幸恵は笑みを浮かべる。
この海鳴大学病院は特殊かつ巨大な医療施設として有名だ。中心に他の棟よりも一回り大きいA号棟が置かれ、その周りを6つの病棟が囲うように建てられている。
幸恵が働くB号棟とトウシとフィリスの2人が働くG号棟は丁度隣同士になるように建てられている。働く病棟が違うことから普段あまり会う機会がないのだが、仕事の合間、たまにこうして休憩ルームやG号棟の食堂などで会うことがある。
3人が知り合った切っ掛けもそれによるものだ。
「そうそう幸恵先生、ちょっち聞きたいことがあったんだ」
トウシは「む〜!」と唸りながら睨み付けているフィリスを無視し、幸恵に話しかける。
「はい、なんでしょうか?」
「あぁ、同僚のヤツに聞いたんだが、最近こいつんとこに若い男が出入りしてるらしいんだが……何かその男について知ってるかい?」
「へぶっ!? ちょ、トウシさんっ!!?」
唸ることを止め、拗ねるようにココアを飲んでいたフィリスは、思わず飲んでいたココアを噴出した。
「若い男? ……あぁ、もしかして高町君のことですか?」
「ほほ〜う、高町君、とな?」
トウシはニヤニヤと不気味な笑顔を顔に貼り付けながら、先ほどまで自分を睨み付けていたフィリスへと視線を向けた。
フィリスはサッと視線を明後日の方向へと向ける。
その表情にあまりにも心当たりがありすぎるフィリスは、それを見た瞬間背筋に悪寒が走ったのが分かった。
……それは不幸の前兆だった。
「はい、確かフィリス先生が担当してらっしゃる男性で、もうこれでもかってくらいカッコいい人ですよ」
「あ、あ゛ぁ〜」
この時、間違いなくフィリスに対し神などというものは存在しなかった。
そんなフィリスの心情など知らない幸恵は自身が持っている情報を全てトウシへと明け渡す。
「ほら、知りませんか? 高町君といえば、あの有名な翠屋のパティシエールでいらっしゃる高町桃子さんの息子さんですよ。たまにですけど差し入れであの有名な翠屋のシュークリームを持ってきてくれますよ。……あのシュークリームは本当に絶品でした」
食べた時のことを思い出しているのか、幸恵の表情が少し緩む。
「……ん? ―――あぁ、高町って“あの”高町の長男のことか? ほほう、あいつを落とそうとは、フィリスにしては中々に思い切ったことをやるじゃないか」
「だ、だから! 恭也くんとはそういうんじゃ―――!」
「フフ〜ン♪ あたしにそんな嘘は通用しないぞ。お前が普段見ないファッション雑誌を同僚の子から借りたり、映画や水族館、遊園地諸々のペアチケットをソワソワしながら握り締めていたりしていたことはすでに調査済みだ」
「な、なんですか、その行動力は……」
トウシの異常な行動力に戦慄を覚える。
フィリスには似たような行動力を見せる人達を嫌というほどによく知っている。
さざなみ寮という名の一種の悪魔の巣窟に住む―――メガネの現役漫画家や銜えタバコの自身の姉という悪魔の二人を。
トウシはジリジリとフィリスに近づく。
同じようにフィリスもジリジリと後ずさる。
決してそこまで大きくはないソファの上で一定の距離を保ちつつ移動している二人の姿は、正直第三者から見れば奇妙なことこの上ない。
この場合、第三者とは幸恵のことであり、その幸恵は苦笑を浮かべながら二人のじゃれ合い(?)を眺めていた。
「フッフッフ、さぁ、フィリスくん。諦めて全て喋ってしまいな〜。楽になるz―――ん?」
突然トウシの言葉が不自然に区切れた。
そして、先ほどまでのニヤニヤしながら緩みきった表情が一変し、トウシの表情が真剣なものへと変貌する。
「トウシさん?」
「……トウシ先生?」
フィリスと幸恵の2人は突然トウシの表情が変わったことに怪訝な表情を浮かべ、トウシの名を呼ぶ。しかし、トウシはそれに答えず、持っていたコーヒーをそっとソファの上に置いた。
そして、視線を暗闇の廊下にへと向けると、白衣のポケットに両手を入れ、ゆっくりと立ち上がる。
「……フィリス、この件はまた今度だ。悪いけど、もう一つの仕事の方が入っちまったようだ」
「もう一つの仕事って―――ッ、まさか……」
「あぁ、そのまさかだ……たく、めんどくせぇなぁ、なんでこんなタイミングで来るかねぇ〜。……フィリス、あたしはこれからそっちの方に行くから、一応お前は姉の方に電話しておいてくれ。あぁ、あと、幸恵先生のことも頼むわ」
「―――はい、わかりました」
「へ? え、あの?」
フィリスとトウシの二人は状況を把握しているようだが、幸恵には意味が判らず完全に置いてきぼりだった。
トウシの口から出た“もう一つの仕事”という言葉。
G号棟には他の病棟とは違い、様々な研究機関が入ってることから、最初は研究員としての仕事なのかと幸恵は思った。
しかし、二人の雰囲気からその推測は何か違うような気がした。
「そんじゃ、幸恵先生。あたしはちょっち用事が入ったからお先に失礼させてもらうわ」
「え、と、トウシ先生?」
「あ、そうだ。悪いけどそのコーヒー捨てといてもらえるかい?」
そう言い残し、トウシは廊下の先―――暗闇の中へと消えていった。
◇ ◇ ◇
屋上から施設内部に進入した私達は取り合えず一階を目指し、この施設からまずは出ることにした。
正確な時刻は不明だが、空の暗さから考えると深夜に近い時間帯であるだろうと思われる。
窓から照らされる月の光を頼りに薄暗い廊下を進んでいく。
何度か足を止めることはあったが―――シロがあちこちに興味を示し、その度に立ち止まってじっくりと観察したため―――特に問題なく出口へと近づいていた。
………………いたのだが。
「…………どう?」
『あぁ、大分良くなった……すまないな』
「ん〜ん、しょうがない……クロはずっとわたしをずっと守ってくれてたから」
途中、私は壁に背を向けて座り込んでいた。
血が決定的に足りない。
歩いている最中、重度の貧血に似た症状が私を襲った。
手持ちの道具で簡単な応急処置を施し、出血こそ抑えた。しかし、失ってしまった血液が帰ってくるわけも無く、増血剤も所持していなかったため体調は未だ最悪の状態だ。
さらに体力も大分消耗していることから、シロに「これいじょう歩くと傷口がひろがる……すこしでもいいから休んで」と強く言われたので、今はその言葉に甘えさせてもらうことにした。
『それにしても……あれからもう2年、か』
「……ぅん」
『君とこうやって会話できる日が再び来るとは夢にも思ってもいなかったが……大丈夫だったか?』
お互い異なる施設に隔離されていたため、私には今までシロがどのような扱いを受けていたのか知る術が無かった。
「ん……わたしのばあい、下手にいじると危険だってわかってたみたいだから、眠らされた後、2年間ずっと監視されてただけみたい」
そうか、と私は思わず安堵の溜め息をこぼした。
「でも、クロは……ひどいことされてたみたいだね」
シロの指が私の体―――腕に残っている多くの注射跡や数々の実験中に受けた傷跡をそっと撫でた。
例え治療魔法を使用しても、決して消えることの無い傷跡の数々。それを見て、シロの表情が曇るのがわかった。
『……別段、君が気にすることは無い。これをやったのは君ではなく、面白半分や興味本位で実験を行った研究者達の方だ。君は一切悪くない』
シロの頭に手を乗せ、白銀の長髪を指の隙間に流すように優しく撫でる。
『それに、確かに見た目こそこんな有り様だが、君が思っているほどこれらはそこまで酷い傷ではない。だから、本当に気にしなくてもいい』
始めは困惑の表情を浮かべながら私の表情を窺っていたが、撫で続けているうちに目を閉じ、気持ちよさそうに私の手を甘受する。昔はよくこうしてシロの頭を撫でていた。―――私とシロ、そして“彼女”の3人で行動を共にしていた記憶が脳裏を横切った。
「クロ……?」
『……いや、なんでもない。さて、そろそろ行くとしよう。いつまでもここに居るわけにもいかないしな』
「ん、……わかった」
撫でる手が止まったことにシロが怪訝な表情を浮かべる。それに対し苦笑で返すと足腰に力を入れゆっくりと立ち上がる。
しかし、小休憩を取ったことで体力は少しばかり回復したのだが、決定的に血が足りない状態であることにかわりなく、足元が少し覚束ない。
「…………ん」
その情けない様子に見兼ねたのか、トコトコと傍に歩み寄り、私の体を支えるように手を掴む。第三者から見れば自身の半分ほどの背丈の少女に支えられる大男という光景は正直異常とも思えるものだろう。
しかし事実、シロに支えられているおかげで先ほどまでの覚束無い足元は大分落ち着いた。
『む、………すまない』
「んーん、きにしない……」
私はシロに支えられたまま暗闇の廊下を少しずつ先へと進んでいく。
しかし数分後……………ここで1つの問題が生じてしまう。
『む……むぅ…………』
別にこうやってシロと手を繋ぐことに不満は無い。それどころか今は支えてもらっている身であり、感謝さえしている。
―――しかし、ここでの問題は私達の身長差にある。
私とシロの身長差は1m近くある。
そのためシロが私の手を繋ぎながら歩くということは、私は常に前のめりの状態で歩くことに繋がる。この時初めて気づいたのだが、この体勢は思った以上に体に負担が掛かり、正直かなりキツイものがある。
私はやはり一人で歩くと言おうと思ったのだが、
「………ん? なに、クロ?」
『…………いや、なんでもない。気にしないでくれ』
どことなく嬉しそうなシロの表情を見るとそんなことも言えなくなってしまう。
結局その体勢を維持したまま、出口を目指し先へと進む。
そしてある程度階を降り、そろそろ腰が限界だと悲鳴を上げるな、と思っていた時のこと―――
『(………む?)』
シロに手を引かれながら、私はあるものを見て奇妙な点に気づく。
『(…………なんだ、この文字は?)』
薄暗い廊下に存在する光。私達の足元を照らすそれは、なにやら人のようなものが扉の外へと走り出している様子がイラストで描かれていていた。
………おそらく非常口を教えるものだと思うのだが、正しいかどうかは判らない。
―――何故なら、そこに書かれている文字が読めないからだ。
「…………」
くぃ、くぃ―――
『―――む? どうした、シロ』
突然シロが私のコートの裾の部分を引っ張ってきた。
だが、シロは私の方ではなく廊下の向こう―――暗闇の先へと視線を向けていた。
「………来る」
『む? なに―――ッ?!』
シロが言葉を呟いた次の瞬間―――闇の中から光の反射を受けた、数本のナイフが私達を目掛け飛んできた。
『チッ! シロ、伏せていろ!!』
私の言葉にすばやく反応したシロはすぐさま床に伏せる。それを確認し、私も上半身を反らしそれらを回避する。
ヒュッ―――
ナイフを避けた次の瞬間、更に風を切る音が聞こえた。
何の音だ、とそこに視線を向けると―――そこには紅蓮のように赤い髪の女性が何かを振り下ろそうとしていた。
『グ―――ッ!』
その一撃をなんとか回避し、私は伏せているシロを抱え後方へ跳ぶ。
そして、そのまま追撃しようとする女性に対し、右足を蹴るように足を振りかぶり、仕込んでいた暗器を赤髪の女性へと飛ばす。
「チッ!!」
これが牽制として上手くいったのか、赤髪の女性は追撃を諦め距離を空けることに成功する。
『………む?』
右頬に熱を感じた。手で触れてみると微量ではあるが出血していることに気づいた。
避けた瞬間、僅かではあるが女性が持っていた銀色の大型ダガーナイフのようなものを視界に捕らえることが出来た。おそらく完全には避けきれず掠ったのだろう。女性の攻撃速度が私の想定範囲内を超えていたことに少し驚いた。
「………おい、そこのデカブツ、めんどくせぇから単刀直入に聞くぜ。てめぇは、何もんだ? どこから侵入した? 何しにここに来た? ……おら、答えろ」
赤髪の女性が次々と口を開く。言動がこれでもかというほどに乱暴な上、言葉の一つ一つにわかりやすいほどの嫌悪が込められていた。
その鋭い二つの眼からは常人ならば失神するほどの強烈な殺気がにじみ出ていた。
『……シロ、下がっていろ』
『……うん、わかった』
念話で簡潔に伝える。
私の意を理解したのか、シロは足音を立てずに私の後方へと下がり、自身の気配を完全に断った。完全に気配が消えたことを確認すると私は再び女性と向き合う。
―――まずは誤解を解くのが先決か……
『………勝手にここに入ったことについてはすまないと思っている。……しかし、私達は別段この施設に用が有って来たのではなく、転移魔法の事故によりここまで飛ばされてしまっ―――』
「……おいおい、だんまりか? 言っておくけど、あたしはあんまり気が長い方ではないんでな。とっとと喋らねぇと、てめぇを叩き潰して警察に突き出すぞ」
―――まさか、私の声……念話が聞こえていないの、か?
その事実に愕然とした。
これは、拙い―――念話が伝わらない相手となると、私には事情を説明する術がない。それは現状を打開することが出来ないという意味と同義だ。
時間が経つにつれ、目の前の女性の殺気が徐々に増してきている。
このままでは最悪、戦闘さえありえる。
先ほどの回避行動が拙かったのか、処置を施した傷口が開き、血が滲み始めた。そして症状が悪化し、足元が覚束無いどころか視界までもが思うように定まらなくなっていた。
この状態での戦闘など自殺行為にも等しい。
「―――あぁ、残念だ、時間切れだデカブツ。ゲームじゃねぇが、てめぇはここで―――“GAME OVERE”だ」
『なッ?! ま、待―――!』
脳が混乱しているのか、私の声が女性に聞こえないことも忘れ、女性に静止を呼びかける。
女性は体勢を低くし、ナイフを逆手に持ち直すと、再び襲い掛かってきた。
先ほどの速さの比ではない。私の首元、胸、腕を一閃ずつナイフを走らせる。
その攻撃をほとんど倒れるように後方に下がることでなんとか回避する。しかし、さらに休むことなく女性の連撃が続く。
女性の戦闘能力は高く、攻撃、移動速度も中々に速い。
万全の状態ならば十分に対処できる速度なのだが、
『(……最悪だ。意識を保つのも段々辛くなってきた…………このままでは、拙いか)』
思考するのも辛くなってくる。
女性も自分の攻撃が当たらないことに苛付いてきているようで、その表情がどんどん険しくなっていく。
人のことが言えた義理ではないが……曲がりなりにも女性なのだから、そのような顔をするものではない。殺気もそれと比例して増していくのだから本当に始末に終えない。
「ええい! てめぇ、避けて、ねぇで! 素直にっ! 当たりやがれ!!」
無茶を言わないでほしい。それに、一撃でもまともに当たれば致命傷に成りかねない場所を狙っている者が言う台詞ではない。
薄れていく意識の中、現状においての対処法を検討。
女性を戦闘不能にさせる―――現状において良策ではある。だが、やはりここで事を大きくしてしまっては後々の行動に影響が出てしまう可能性もあることから一時保留。
シロを抱えて戦線を離脱する―――現状においてそれは不可能。今の状態ではあの女性の方が私よりも速い。逃げきれる保証がないことから却下。
戦闘行為を一切行わず、相手の体力が無くなるまでこの状態を維持する―――出来ればこの策を採用したいのだが、現状不可能。女性の体力がどれほどあるのかは不明だが、十中八九先に体力が切れるのは私だ。
…………一時保留案を採用。
霞が掛かる思考意識に無理やり活を入れ、戦闘体勢を取ろうと構えなおそうとした時、
「い、いい加減に―――しやがれっ!!」
『―――ッ!?』
女性が白衣の中から同型のナイフを大量に取り出し、私に向かって投擲する。
まさか、まだこれほどの数のナイフを隠し持っているとは思いもしなかった。私は急いで身を反らし回避する。数十本にも及ぶナイフのうち2、3本避けきれず腕をかすったが、損傷は軽微。
傷口が増え、出血量も増えたが問題ない。
だが、回避運動を取ったと同時に―――私は重要なことに気づいた。
「……あ」
『な―――ッ!? いかん、シロっ!!!』
そう、ナイフの向かう先―――私の後方には、気配を断っていたシロがいる。自身の方に飛んでくるナイフに思わず驚いたのだろう、展開していた隠密魔法が解け、その身がさらけ出された。
「……なっ、女の子!? なんで―――」
突然暗闇の中から現れたシロに女性が驚きの声を上げる。
更になにか言っていたように聞こえたが、今はそのようなことを気にしている場合ではない。こうしている間にも、ナイフはシロに向かっている。
リーンフォース・ブースト
『脚力強化―――ッ』
瞬時に術式を脳内で組み立て、脚を強化し、地面を一気に蹴る。
ブチッ、ギチギチッ―――
『ぐ―――っ』
地面を蹴った瞬間、脚の筋肉が悲鳴を上げ、言葉に出来ないほど尋常ではない痛みが全身を襲った。その激痛に思わず苦悶の声を口からこぼす。
しかし、今は優先すべきことは自分の体ではない。
頭の中で限界だと警報が鳴り響く。しかしそれを無視し、体を無理矢理動かし、一気にシロとナイフの間に体を滑り込ませるように移動する。
そしてコート大きく翻し、全てのナイフを床へ叩き落す。
『はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……』
ギチ、ギチ―――ッ
悲鳴を上げる体を無理やり行使させたため、尋常ではないほど体力を消耗した。開いた傷口からの出血も酷く、額から脂汗がどんどん流れ出る。それが床へと滴り落ちて、小さな溜り場を作る。
「クロ……大丈夫?」
目の前ではシロが心配そうに私の顔を見上げてきた。
正直顔を上げるのも辛いが、いつまでも心配かけさせるわけにもいかない。深呼吸を繰り返し乱れる呼吸を落ち着かせると、それに答えるため伏せていた顔を上げる。
『はぁ、はぁ、はぁ……あ、あぁ、大、丈夫だ。君の方こそ、怪我はないか? シ―――』
ドクン―――ッ
『――――――』
突然、体が硬直する。この感じは、先ほど屋上で―――
ドクン―――ッ、ドクン―――
否、先ほどのものとは何か違う。体のあちこちが脈打ち、それが段々と早くなっていくのが分かる。
いったい、なにが起こって―――
『―――ッ?!』
ゴフッ
「―――ッ?! クロッ!!」
そして、突如襲い掛かった嘔吐感に逆らえず、口から大量の血を吐血する。
そんな私を見て何かを叫んでいるシロが視界に入る。
『し、シロ……?』
――――――おかしい。
私の記憶ではシロの髪は白銀色だったはずだ。
肌も白く、眼も白かったはずなのに―――歪んだ視界の中、目に入るもの全てのものが真っ赤に染まって見える。
ついに立っていられず、地面へと膝を付けてしまう。
「お、おい! いったいどうし―――」
異変に気づいた女性が倒れ掛かっている私の体を支えようと駆け寄る。
女性の表情には先ほどまで見せていた険悪な表情は鳴りを潜め、突然のことで動揺しているのか、どこか困惑している様子だった。
そんな女性を尻目に、私の意識はどんどん薄れていく。
「クロ―――ッ!!」
その声を最後に、私の意識はまるでモニターを切るような音を立てて、暗闇へと染まっていった。
to be continued